鹿野の潮音洞を見学して②

可動堰渋川の可動堰
  この堰で水を溜め、水路に水を流していく最初の地点です。










田んぼの中を通る水路。870mの水路
  田園風景の中を通っています。
  この田んぼにも水は配分されながら流れて行きます。









取水口裏山の取水口
  少しかがんで中を覗いてみると、昔の石組みが見えます。










漢陽寺裏庭の出水口漢陽寺の裏庭の出水口
  ゴウゴウと大きな音をたてながら、水が止めどなく溢れ出てきます。
  漢陽寺の裏の廊下に腰掛けて、しばし周囲の木々と溢れ出る水を堪能。









清流通り。⑤この水は漢陽寺の中の美しい庭を流れ、清流通りへと進みます。
  水車や、池、句碑、神社、しだれ桜などを見ることができる延長545mの通りです。
  水を中心として自然・文化、そして住民の生活が一体となった散策スポットとなっています。






⑥この水路を中央にし、両側に家を建てていく方式で、鹿野の街づくりは進みました。
  

足湯ならぬ、足水。⑦現在は道路の両側に水路がつくられています。
  この日は、その歴史を踏まえて、水路に足を浸けられる、「足湯」ならぬ「足水」が」セットされていました。










岩崎想左衛門重友の像岩崎想左衛門重友の銅像
  「大地潤す命の水の開拓者」として、鹿野総合支所の庭に建てられています。

 想左衛門重友は慶長3(1598)年、代々毛利家につかえた郷士の岩崎家に生まれました。生まれた頃の岩崎家は農業を営む浪人暮らしでした。
 想左衛門が9歳の時に寺に修行にだされましたが、もう一度、武士に戻りたいという思いを強くし、14歳で寺を飛び出しました。
 のちに鹿野村の田村家の養子になり、その後、独立して岩崎想左衛門重友を名乗るようになりました。
 その後「潮音洞」を開いた想左衛門の努力が認められ、岩崎家は再び毛利家臣に迎えられました。



平成18年の岩崎家。岩崎家
 その後、安永3年(1774)に岩崎重次が、家伝の秘薬を「超世丸」と名づけ丸薬にして売り始め、売薬業を創業。大変栄え、江戸や大阪、長崎、中国など各地に取次店があったそうです。

 この時の家の前に掲げてあった看板は、鳥栖の「くすり博物館」に所蔵されています。





現在の岩崎家。看板はありません。 現在、鹿野の街並みの中ほどにこの家は現存しています。空き家となっているため、家の傷みもひどく、鹿野焼の瓦も傷んでいますが、趣のある家の風貌の佇まいです。






 鹿野の街を散策しながら、歴史と文化を感じた一日でした。


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ふじいりつ子

Author:ふじいりつ子
山口県議会議員

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